Creative: Nara

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奈良県靴工場団地:知る人ぞ知る 紳士靴の産地

奈良県靴工場団地知る人ぞ知る
紳士靴の産地

背の低い山に囲まれた平野がどこまでも広がる。
奈良県靴工場団地をはじめて訪れてまず驚いたのは、
敷地内を直線に走る道路にゴミひとつ落ちていないことだった。

2014年発行 「日本の革 7号」より

団地が育んだ結束力が
荒波を乗り越える武器に

奈良盆地の北部に位置する大和郡山市。かつて政治、文化の中心地として栄えたこの地に1984年、竣工したのが奈良県靴工場団地である。
都市計画のひとつである工業団地の歴史は古い。集積による相乗効果を期待した主に中小企業に向けた施策で、1896年にイギリス・マンチェスターに誕生したトラフォードパークエステートがその嚆矢だ。日本では1934年、千の町工場があり、“モノづくりのまち”を謳う大田区の下丸子に誕生した。
奈良県靴工場団地の特筆すべき点は靴業界ではじめてつくられた団地であり、そしてこの種の高度化事業のモデルケースともなった。「見たこともない借金です。そんなもん、おれらに残すんかとわたしら二代目は反発したもんです。しかし、いまとなっては感謝しかありません」

奈良県靴工場団地の敷地面積は3万8383m²。総事業費は43億3300万円にのぼった。現在会員数7社、従業員数200人、年間生産足数170万足。

理事長の南岡幹夫さんは続けていう。「当時の奈良の紳士靴産業は乗りに乗っていました。日本で量産態勢が本格化するのは東京オリンピックが開催された1964年以降。先代らは、年代には機械生産をスタートさせていましたからね。コスト競争力の面で頭がひとつもふたつも抜けていたんです」
そうして県下の社が集まり、竣工した団地は新幹線が通らない、奈良という地理的不利を補ってあまりある強固な横のつながりをつくった。専務理事の松本勉さんはいう。
「我々が誇ることができるのは、利害関係を抜きにした付き合いです。製造業にとって戦後は激動の時代でした。しかし思いを同じくする仲間がいたおかげで、力強く次の一歩が踏み出せた」
南岡さんが受ける。「当初、先代が始めた組合会議室で行われる週回の定例会は、先代の時代よりも回数こそ減りましたが、今も引き継いで行っています。全社総出で月回行う団地内道路の清掃は恒例になりました」
時代は団地の追い風になった。二代目が揃って打った次の手は、海外における制作体制の構築だった。ふたたび、南岡さん。「当時商社の進出はありましたが、メーカーがみずから乗り出すようになってきた。モノづくりを知っていることがプライオリティになった」
こうして1999年、“みたこともない”借り入れをものの見事に完済した。
身軽になって15年。奈良県靴工場団地は三代目へのバトンタッチがはじまっている。
「彼らには言わずもがなですが、かつてのような商売はもう成立しない。小さくても良質な金鉱を掘り当て、掘り進んでいくのがこれからの生きる道です」
松本さんが次代へのエールを送れば、南岡さんはあらためて団地の意義を力説する。
「護送船団方式が通用しなくなったいまも、やはり精神的な支柱として欠かせません。団地を通して育んだ結束力は本当に、誇りです。松本さんは全靴協連(=全日本革靴工業協同組合連合会)の会長も務めてくれています。ニッポンの製靴業界の会長ですからね。。松本会長もとより奈良のあり方が評価されたということ。ただただうれしい」
先代までが築きあげてきたものづくりの技。そして激動の時代をも生き抜いてきた先見の知恵。「靴」を通じて、この地には伝承されてきたものが数多ある。次代の担い手たちがこの宝をどう継承していくか。奈良の靴づくりに注目し続けたい。

関西以南の製靴業は大阪が種を蒔いた。1876年の製革工場(創業者:藤田伝三郎)、1879年の大倉組皮革製造所(創業者:大倉喜八郎)がそのルーツである。紳士革靴を得意とする奈良は大阪で学んだ職人が帰郷し、起業したのがはじまりとか。

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